勝手に読書感想文

生きることはうつくしい「庭とエスキース」(奥山淳志/みすず書房)勝手に読書感想文(レビュー)

こんにちは。
Emmy(@choosejoy8888)です。

わたしは写真を撮るのが大好きで、
写真を撮ることって
どういう事なんだろう?といつも考えています。

他の写真家さんの写真を見るときも
かなりシビアな目で見ているわたしがいます。

それはジャッジなのかもしれないし、エゴなのかもしれなくて時に
(何様だよ!)と自分にツッコミを入れてしまうのだけど、

自分が撮りたい写真はどんな写真なのか?ということを常に考えていると
いつもこの人の写真は?という目でついつい写真を見てしまうのです。

岩手の雫石に住む写真家、奥山淳志さんの「弁造さん」の写真を見たのは
何がきっかけなのか忘れてしまいましたが
最初にホームページで「弁造さん」を見た時に
温かさと切なさと儚さと強さと
なんだかわからないけれど、
ごちゃまぜになった感情が心にあふれてきて
忘れられなかった記憶があります。

そっとブックマークしたそのホームページで
それからしばらく後に
「弁造さん」の写真を自費出版すると知りました。

さらに「庭とエスキース」という本を出すと・・・

わたしは写真集は買えずにいたのですが
「庭とエスキース」がどんな本なのかも知らずに(最初は写真集だと思った)
1冊取り寄せたのでした。

Atsushi Okuyama photography

「庭とエスキース」を読んで・・・

最初は写真集だと思って取り寄せたのですが
思いのほか、がっちりと文字が多めの本でしたので
しばらくそのまま放置していた「庭とエスキース」ですが、
なんとなく手に取り、ようやく読み始めて
すぐに夢中になり惹きつけられるように読みました。

この本は写真家の著者が写真を撮ることで
他者の「生きること」に近づきたいとの思いから
北海道で自給自足の生活を送る「弁造さん」の姿を
14年にわたって撮りつづけ、「弁造さん」が亡くなった後に
様々な何気ない会話とエピソードを回想しながら綴っていったものです。

あの頃、漠然と胸の中にあったのは、人は自分の人生しか生きられないという絶対の事実だった。
僕はそのことを疑うこともなく、今とこれからを生きるうえでの約束のようなものとして感じていた。でも、心の奥底では自分以外の人生を知りたいと願っていた。
自分ではない誰かの人生を満たしている日々の時間に触れてみたいと思っていた、理由もなく。
そして、他者にカメラを向け写真を撮ることを通じてそれが可能になるのではないかと、次第に思いを募らせていった。
その思いの先に立とうとしてくれたのが弁造さんだった。

「庭とエスキース」より




会話を「文字」にする。
一瞬を「写真」で捉える。

それは本当に不思議なことだと思いました。
なぜならば、本の中の「弁造さん」は確かに生きているからです。

「メディア」の単数形を指す「メディウム」とは、ものとものをつなぐ
媒介物という意味だと知って「写真」そのものを「時のメディウム」と呼ぶべきだと
感じたのはいつのことだろう。
僕が見ている写真は弁造さんのかつての現在であり、今となっては過去に違いないが、
それが僕の現在と強く関わっていく。「過去」と「現在」を新たにつなぎ合わせ、
「弁造さん」と「僕」という存在を結びつけていく写真は「メディウム」そのものだった。

「庭とエスキース」より


他者の目を通してみる誰か、というのは
他者と誰かの関係性を見ているに他ならないなと感じました。

「弁造さん」と読者をつなぐのは本という「メディウム」。

著者の目を通して「弁造さん」を知り、
著者の目を通して「弁造さん」を愛しく思いました。

そこに温かいものがあるから
写真を見たときに温かい気持ちになります。

そこに恋しさがあるから
一行一ページを読むごとに
切なさで胸がいっぱいになりました。

「弁造さん」は、たぶんに自給自足といっても
そんなに夢のような(物質的)豊かさがある生活ではなかったと思うし
一人暮らしの生涯独身という暮らしは
一見すると、その姿は、
わたしが一番恐れている未来の姿かもしれないとも思いました。

この物質主義の現実、権威優位主義の今の世界で見ると
それは「幸せ」のテンプレートとは程遠い姿だったのが事実でしょう。

そのことで、卑屈になる夜も「弁造さん」には、もちろん
たくさんあったかもしれない。

だけども、ひとたび、
この本を通して
「弁造さん」の考えていること、
日々味わっていたこと、

自然がもたらす奇跡に喜々としている様子や
血のつながらない写真家の若者との何気ない心の交流を
垣間見たときに、

ああ、「豊かさ」って本当に目に見えない。
数字ではかれない。何が幸せかは、型に当てはめられない。

他人の幸せは、本人以外わからない。

決してまわりには判断できないのだと改めて
強く思いました。

この本を通して
四季の中、自然の中の「弁造さん」を知り
絵を描くということを、大切に思うあまりに
ちいさな丸太小屋で大きなイーゼルに向かい
完成されないエスキースばかり書いていた
「弁造さん」を知り

最後まで絵描きになる夢を持っていた事や
「弁造さん」が亡くなり
戒名の由来を知ったとき、


わたしが感じたことは
自分の中の確かなもの
誠実に誠実に向き合って生きた人は

たとえ何か社会的に認められるような大きな成果や功績や
目に見える形で受け継ぐ者がいなくても

その生涯は、なんと美しいのだろうと思ったのでした。

生きることとは、こんなにも美しいのだと知ったのでした。



そして、血のつながりや
社会的な何かのつながり以外でも
人は人に「大切なもの」をつないでいけるのだということも。

かつての弁造さんが馬を使ってハロー引きをして開墾した土地。
今、その土地は原野へと還ろうとしている。
戦後から経済成長時に農業を取り巻く状況が大きく変わっていくなかで、
弁造さんも時代についていこうと必死になっていた時期があった。
しかし、新しい時代の農業に、弁造さんが矜持として持っていた”百姓”の姿はなかった。
時代が求めたのは土を作るのではなく、土から作物を奪い取りながら、
生活を生み出すためではなく金を生み出すための農業だった。
だから、弟が作った借金を返し終えたとき、弁造さんは時代の流れからひょいと
降りてしまった。自給自足の庭作りはそこからはじまり、その結果、単価の安い作物を
たくさん作るための広い耕作地は必要ではなくなった。
馬や派手な農業機械も必要がない。
弁造さんは大きなハローを捨てて、小さなハローを作り直すと
自分の身体で引っ張り始めたのだった。

「庭とエスキース」より

「この庭は、実験場のようなものじゃ。日本が高度経済成長に入って、わしら百姓に、百の姓を持つ必要はない。作物はひとつだけでいいから大量に作れと言うてきた。土を肥やす必要もない。化学肥料を買えばいいと。わしは科学を信じとる。人間の知恵の集大成じゃ。わしらは科学で救われてきた。でも、だからと言って、そのまま鵜呑みにすることもできん。今の暮らしにはいつか限界が来ると信じとる。そうなると、たくさんの人が死ぬかもしれん。でも限界が来た時、戻る場所があればなんとかなるんじゃないかという思いもある。わしの庭は、そのときのための実験場だ。こうした場所さえあれば家族ぐらいは生きていける。そういう場所を伝えることができんかとわしは庭を作ってきた」

「庭とエスキース」より



本当にここ数年で一番、心に響くものがあった本でした。
ぜひ、秋の読書におすすめです。












ABOUT ME
emmy
須藤絵美(Emmy) 秋田県生まれ |  秋田公立美術工芸短期大学卒 |  四柱推命鑑定師 |  たまゆらフォトグラファー |  せっかく地球に生まれてきたのだから、やりたい事全部やる!をモットーに日々チャレンジ。本当のその人らしさとは?を四柱推命で研究中。 写真を撮ること、生き物と戯れること、ゆっくり自然の中を散策することが大好きです。 人と自然を繋ぐ祈りの写真家を目指して。 羽黒山伏神子(みこ)名 「啓窓(けいそう)」